人が介入していないところには死で溢れ返っている。

しのボクシングかながわけんたいかいに出ます。
私にとって詩はなんだろうか。人が馬鹿にするような感情を大事に大事にする自分のそういう想いを誰にも言えないことを肯定する行為だと思います。自分さえもそのことを馬鹿だと思ってしまったら嫌です。私は人のそういう心の奥底に眠ってる感情を大事に大事に見つめて生きたい、そのための詩作行為だと思っています。自分を肯定するための。私の言葉はへたくそだけど、この言葉たちは確かに私の体から出たものです。それを口で読んであげることで、自分の声で読んでやることで、具現化してあげる、それで初めて人に何か伝わるのなら、私の言葉が私が肯定されるのなら、ようやく存在意義が見えてくる。言葉は私自身です。いつも見ないふりしてる誰にも教えない私自身です。自分を肯定しやれればと思います。そして他人も肯定していけたらと思います。
我ながらつまんない文章だな。おい。でもそうなんだよ。どうしてこんないいこなんですかね。何やっても何言ってもオナニー以外の何者でもない気がする。でも予選通過したとき自分が肯定されたような気がしたのは確かだった。まだ私、存在していいんだって思えたのだ。存在したい。死にたくない。そうだよ死にたいから私は詩を書いてる。詩って死に近い気がする。よくわかんないとこが。なんだかミステリアスなとこが。なんか綺麗なとこが。私は死にたいって想いを肯定するために死が綺麗で哀しくて憂いを満ちていて美人薄命みたいなイメージで書いているから、今の詩駄目なんだよな…でも死を肯定したいんだ。死にたい自分を許してあげる、そのための方法だったんだと思う。実際、悲しい方が詩は浮かぶし。私は1人でいるときが多い。人と接してないと違う世界が見えてくる。それは死の世界なのかもしれない。静かで動かない景色。動かない音。景色は私たちが動かない限り決して動いたりしない。そういうのにみんな気が付かない。道端に咲いてる花の美しさに気が付いたりしない。蟻が毎日働いてるのに気が付いたりしない。そういうもののなかには憂いが満みちている気がする。人が介入していないところには死で溢れ返っている。自分が景色と一緒に歩くことをやめたら、少し死の世界に一歩近づいたことになるのかもしれない。そういうのを忙しいなかで徐じょに忘れていってしまう。中学校のころや小学校のころは、すぐにそういう世界にたどり着けたのに触れたのにその世界のことを信じて疑わなかったのに、詩に触るってことは、そういうことなんです。妖怪に触れるような感じ。それは未知への希望でもあるし絶望でもある。私は目に見ないことも世界だと信じたいんです。私にとって、それへの接触方法が詩だった。普段思ってることをなかなか言えない。だから言葉にする。でもそう考えると一番未知なのは自分の心なんだと思う。